「あなたは……」
「いいから、ついてきてください」
 チハヤに反論の余地は与えられなかった。彼女は見た目よりも遥かに強引で、チハヤの身体はあっという間に陰の中に吸い込まれてしまう。
「『彼女』たちの知らない道を、知っています」
 少女は前方を向いたまま、それ以上何も言わなかった。少なくとも彼女がチハヤのことを助けようとしているのは明白だったが、あまりにも突然でその真意も不明。チハヤは猜疑心を隠さなかったが、彼女の行為と先ほどの表情から邪な企みの気配を感じなかったのもまた事実だ。少なくとも、最新鋭のアンドロイドに真っ向から刃向かうよりかは、少女に身を委ねたほうが幾許もましだろう。
 少女に右腕を引かれ、暗い路地裏を突き進んでいく。右に曲がり、左に曲がり、彼女の行路は先程のチハヤの動きなど比にならないくらい、過剰なほどに入り組んでいた。だがそれを何度も繰り返しているうちに、音が消えていることにチハヤは気がついた。
 金属が地面に擦れる音、レーザーが壁を焦がす音。アンドロイドが迫ってくる音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「もう、大丈夫そうですね」
 一人分もないほどの細い道を抜けた先、二人は小さな公園のような寂れた場所に踊り出た。足元で雑草が無造作に長く伸びる様子はディレイでは珍しい。眼前のジャングルジムと思しき構造物は、廃墟ですと自己紹介しているかのごとく錆びついている。その構造物の傍で足を止めると、彼女はチハヤに振り向いて小さく息を切らしながら微笑みかけた。
「ここは……」
「秘密基地です。私たちの」
 秘密基地。その単語を耳にした瞬間、チハヤは人が変わったかのように周囲を睨みつけた。だが周囲には人の影どころか、生活の後すら見当たらない。存在するのは廃材の軍勢だけ。その単語はチハヤが想像したものとは異なり、単に遊び場を意味するだけのようだ。きょとんと呆けるミズキを前に、チハヤはその場でしゃがみ込んだ。
「危ないところでしたね。先ほどのアンドロイドは、サイバーポリスでしょうか。見たことのない姿でしたが」
「そうね、その類だと思うわ。あんなに可愛らしいのは、私も初めて見たけれど」
 チハヤは自虐ぎみに両腕を軽く広げる。ずっと走り続けて溜め込んだ疲労を解放するように、音にならないため息を地面に吐き出す。俯くチハヤの顔を、少女が丸い瞳で覗き込む。
「あなたは、何者ですか。サイバーポリスに追われていたということは、何か悪いことでもしたのでしょうか」
「私の名前はキサラギチハヤ。そうね……犯罪者なのは、間違いないわ」
「犯罪者……まさか、殺人とか」
「いいえ。でももっと凶悪かもしれないわね。レジスタンス、って知っているかしら?」
 レジスタンス。その単語を口にされた瞬間、少女の目は大きく見開いた。その単語は並の犯罪者など比にならないくらい、「神」にも等しい存在に抗う者を示す言葉だった。少女に限らず、普段太陽の下で暮らす人間は誰しも目を見開く単語だろう。
 しかしその目とは裏腹に、少女の足は逃げ出そうとしなかった。目は見開いているものの、視線も逸れることなくまっすぐチハヤを突き刺すままだった。
「助けたこと、後悔した?」
「……いえ。驚きは、しましたが」
 少女は一つかぶりを振ると、朽ち果てたジャングルジムへと視線をやった。ディレイの一画よろしく景色は酷くやつれていて、あまりにも薄暗くひっそりとしていた。ここから一歩外に出れば、広がるのは人ひとりいない荒野だ。
「見ての通りの薄暗さですから、この辺りに犯罪者が逃げ込んでくるのも珍しくはありません。ですが、レジスタンスという人に会ったのは、さすがに初めてです。空想上の存在だと、思っていました」
「怖い?」
 覗き込んでくる少女に、チハヤはそっと微笑み返した。不思議そうに見つめる少女の目が、じわりと元に戻っていく。
「いいえ。むしろ、凄いと思います。みんな息苦しく思ってはいても、反抗しようなんて声に出すことはなかったので」
「そんな大層な存在じゃないわ。他人と違って、勇気のベクトルがおかしなほうに向いただけ。この偽りの平和に抗いたいって思いは、皆持っているはずよ」
 今度は鋭く息を地面に吹き付けると、チハヤは立ち上がって周囲を見渡した。トーキョースプロールはその名前のとおり都会が無造作に侵食した街――その輪郭たるディレイは、金属管が剥き出しになった無骨な無機質に都会の清廉な無機質が覆い被さろうとした、中途半端な秩序が漂っていた。
 少女の視線は相変わらずチハヤを刺したままだが、湛えているものはどこか変わっているようだった。それは優しく、勇猛さにも似た力強さもあり、初対面のチハヤさえも思わず信頼したくなるような瞳だった。彼女はチハヤを見据えたまま、右手を自分の胸に当てる。
「私は、ミズキ。マカベミズキです。ディレイに住んでいます。チハヤとは違って、ただの一般人です」
 少女――ミズキはそのまま直角に頭を下げる。あまりに浮いた静寂が漂うこと十数秒、戻ってきたミズキの顔は、少しぎこちなくて柔らかい笑みを浮かべていた。
「ねえ。一般人のミズキに、聞きたいのだけれど」
 ミズキの頭が、今度は横に九十度傾いていく。
「ミズキはどうして、私のことを助けてくれたの。助けようと、思ったの。レジスタンスだと知らなかったとしても、アンドロイドに追われているような人間を、普通は助けようなんて思わないわ」
 アンドロイドは、人類の平和を守るための存在。都市の秩序を維持するための機能。そのアンドロイドに襲われるということは、即ち人類の平和を脅かす存在だということ。その人物がどれだけ崇高な理想を掲げていたとしても、傍からは危険因子としてしか映らないはずだ。
 しかしミズキは彼女の問いに凍ることも戸惑うこともなく、口元を小さく伸ばして一つ頷いた。
「なんだか、不思議な感じがしたんです」
「不思議な、感じ?」
「はい。うまく言葉にできないのですが……他の人にはない、何かをチハヤに感じたんです。あの人を助けないと、そう思ったんです。直感、でしょうか」
 ほっそりとした手が、チハヤの右腕をおそるおそる掴む。チハヤを強引に救い出したその手はやはり華奢で、しかし包み込むような温かさを携えていて、チハヤの腕に絡みつく彼女の指は、まるで幼子をあやすかのように柔らかく皮膚を撫でていた。
 雰囲気だけではない。彼女は、本当に優しかった。
「……ありがとう」
 咄嗟に漏れた些細な言葉に、ミズキはようやく目をきょとんと丸くした。先ほどから踊る異質な言葉には物怖じ一つしなかったわりに、ありふれた挨拶たった一つには唖然とする。不思議な雰囲気に、チハヤは無意識に口元を窪ませる。
「ごめんなさい。せっかく助けてもらったのに、お礼の一つも言ってなかったから」
「……いえ。はい、どういたしまして」
 手を放して一歩後ずさると、ミズキはチハヤから少しだけ目を逸らし人差し指で口元を掻いた。表情は決して豊かではないものの、先ほどから滲み出る感情は少女然とした可愛らしさに満ちていて、非常に温かくて豊かなものだった。アンドロイドが背伸びをしても手に入らないような、純真無垢の温もりがここにある。少女の模型を目の当たりにしたばかりのチハヤは、胸臆でミズキの温かさを噛み締めていた。
「では。私も一つ、聞いていいでしょうか」
 しかし。
「チハヤは、どうやって『マザー』に刃向かうつもりなんですか。それはここに潜まないと、できないことなのですか」
 彼女の温かさをいつまでも噛み締めてはいられないことも、チハヤは理解していた。
「先ほどの様子から、チハヤもまだここに来て日が浅いように見えました。私なら彼らが知らない道も知らない場所も知っています。もしかしたら、何か手伝えることがあるかもしれません。よかったら……」
「それじゃあ、私はそろそろ。本当に助かったわ、ありがとう、ミズキ」
「待ってください。どこに行くんですか。これから、どうするんですか」
 そそくさと離れようとするチハヤの影を、動きを模倣するようにミズキが追いかける。チハヤがどれだけ歩を進めても、二人の距離は一向に広がる様子を見せない。
「助けてくれたことは感謝しているわ。けれど私がどこに向かって何をするか、それをあなたに教えることはできない。だって私は、一級の犯罪者ですもの」
「ですが、つい先ほどまでサイバーポリスに追いかけられていたばかりです。まだ近くにいるかもしれない、下手に動くのは危険です。それに、この辺りの土地勘ならチハヤよりも私のほうが上のはずです。一緒にいれば、チハヤのことを……」
「駄目よ」
 チハヤが振り返ることはなかった。だが、まるで強かな視線でじっと見据えられたかのような声に、ミズキの身体は凍り付いたように固まってしまう。
「私なんかと一緒にいるほうが、よっぽど危険よ。これ以上傍にいるのは、あなたのためにならない」
 弱く、細く、それでいて柔らかく。彼女の声が徐々に小さくなっていく。
「こんな私を助けてくれるほど優しいあなたを、巻き込みたくないの」
「……そう、ですか」
 足音が空中を泳ぐ。それはチハヤが歩み出す音ではなく、ミズキが彼女から離れる音だった。
「……チハヤ。あなたも、優しい人なんですね」
「いくら何でも、買い被りすぎよ」
 ミズキが言葉を続ける予感がした。だからチハヤは、地面を抉るように蹴り上げ、一目散に駆け出した。振り切るように、断ち切るように。今の出会いを、彼女の優しさを置き去りにするように。瓦礫と鉄屑の間を、鈍色を横目に、チハヤはひたすら走り続けた。
 一度だけ、振り返った。遠方にぼんやりと見えたジャングルジムの輪郭の近くに、人影らしきものは見当たらなかった。