
この都市は、成長する美しい迷路のようだ。
称賛なのか皮肉なのか、その意図は唱える者によって異なる。だが都市そのものに気に入られたのか、まるでキャッチフレーズとして静かに浸透するかのように、そう口にする者が都市のあちこちに点在していた。
巨大な鉄塔を中心に網目のように理路整然と張り巡らされた道路、その両側には磨かれた黒曜石のごとく鈍く光る摩天楼が敷き詰められている。無機質で塗りたくられた街並みは星のごとく蔓延った電灯と青白い拡張端末で彩られ、その隙間を自動車が無音で突き抜ける。美しい迷路――トーキョースプロールの日常はいたって穏やかで、同じ顔を並べたような時間が過ぎ去っていく。
中央の青白く光る鉄塔、そこにはこの都市を統べる絶対的存在が君臨している。マザー――都市の情勢をくまなく観測、管轄し、監視し、都市の平和と秩序をコントロールするAIシステム。都市の至るところに「彼女」と接続されたアンドロイドが配置され、アンドロイドを通して「彼女」は都市の様子を四六時中観測する。都市に非常事態が発生すれば間髪なく「彼女」から指令が下され、アンドロイドで組織されたサイバーポリスの手によって何事もなかったかのように処理される。この都市は、AIとアンドロイドによって齎された無感情な秩序によって守られているのだ。秩序だけではない、日常の掃除からインフラ建設まで何もかもがアンドロイドの手によって行われ、自動車に至っては運転手の影すら存在しない。AIとアンドロイドがこの都市の基盤であり法でありライフラインであり、道行く影の半分以上もアンドロイドのものだ。
自動車に導かれるように都市の中央から離れると、都市の風景は徐々に変化し、徐々に乏しくなっていく。敷き詰められた摩天楼も道行く人々もその数を減少させ、都市の端へと辿り着けばそこはあたかも荒野のような、建設途中の剥き出しの金属とまばらに茂った深緑と今にも朽ち果てそうな黄土色が乱立した風景が広がっている。この都市が「成長する迷路」と言われる所以、まさに発展途上にあるのだ。
蝕むように広がる都市の拡張がまだ及んでいない都市周辺には、マザーによる安全も秩序も完全には浸透していない。ゆえにこの場所には都市の秩序に追いやられた者、都市に見捨てられた者、あるいは自ら都市を見捨てた者、そういった人々が潜むように暮らしている。ディレイ――いつ頃からか端の地区はそのように呼ばれていた。
この都市は、水槽の中の平和のようだ。
閉鎖的で息苦しいと言いたいのか、エアーポンプを止めれば容易く崩れるほど脆弱と指摘したいのか、その真意は唱えるものによって異なる。だがまるで受け継がれるかのように、そう口にする人間は絶えず出現した。
キサラギチハヤもまた、そう唱える人間の一人だった。
彼女も発展途上の都市の中で生まれ、かつては都市で生活していた。だが彼女は都市を、マザーを、アンドロイドを、それらによって作られた秩序を嫌った。彼女は飛び出すように都市から離れ、潜伏するようにディレイで生活し始めた。それだけに留まらず、彼女は都市とマザーに対して牙を向けた。そして反旗を翻すべく、彼女は同じ志を抱く仲間を求めた。
無論マザーも、ディレイのことを、そしてチハヤのような人間のことを野放しにするつもりなど到底ない。秩序こそ行き届いていないものの、そのような反乱因子を摘み取るべく、サイバーポリスの群れが日々ディレイへ続々と派遣されている。
その無情な刃は、今まさにチハヤの喉元に突き付けられていた。
「もう逃げ場はありませんよ。おとなしく投降してください」
腐敗した金属片が入り組む、砂埃に塗れた袋小路。チハヤは錆び切った壁を背後に、銃口を向けられ追い詰められていた。クリアブルー一色の銃身に赤い線が三本走るレーザー銃はサイバーポリス専用、常人には決して手の届かない代物だ。その持ち主――チハヤの目の前にいるのは、一人の少女だった。栗色の髪をツインテールに結い、所々から小さな光を発したメタリックな衣装を纏い、そしてあまりにも抑揚のない言葉に口元どころか眉一つ微動だにしない無機質な表情。それはあどけない少女の形をしていて、「少女」とはあまりにもかけ離れた姿をしていた。
「見ない顔ね。新顔は随分と可愛らしい姿をしているのね」
「通信、記録、戦闘に関する最新技術を搭載した最新型アンドロイドのプロトタイプ、それが私です。識別番号22、通称『セリカ型』。以後お見知りおきを」
そう告げながらも、「少女」は視線の先も銃口の先も、表情も何一つ変えない。少女のような見た目をしながらも、それには恐ろしいほどに隙が存在しない。
「そうね、覚えておくわ。ここから無事逃げおおせたら」
最新型アンドロイド――「少女」はそう口にしていたが、事実性能も実力も既存のサイバーポリスとは桁違いだった。チハヤが「少女」と邂逅して十数分、「少女」の迅速な判断と戦闘能力にチハヤはあっという間に追い詰められた。集団ではなくたった一人のアンドロイド相手に、袋小路まで追い詰められたのは初めてだった。
チハヤは目を閉じ小さく息を吐くと、ゆっくりと右手を挙げた。「少女」の暗い瞳が、チハヤの指先を捉える。
「ようやく観念する気になりましたか」
「……いいえ、その逆」
瞬間。チハヤの右手が振り下ろされる。その衝動で彼女の裾から何かが飛び出し、自分の足元辺りに着地したことを、最新型アンドロイドは当然認識した。
そしてそれが、小型の電磁波式ジャミング装置であることも。
まともに食らえば、最新鋭といえどしばらく行動不能に陥ってしまう。「少女」がジャミング装置をレーザーで貫いたのは、極めて合理的な判断だった。そしてすかさず銃口を前方に戻す。一秒にも満たない処理時間、最新型の演算システムによる卓越した判断能力、処理能力は、蚊すら通れないほどわずかな隙しか生み出さない。
だがたとえほんの小さなものでも、隙さえあればそこを突けてしまう。それが、キサラギチハヤという人間だった。
「少女」が銃口を前方に向けたときには、チハヤの身体は既に横の壁目掛けて跳躍していた。右脚で勢いよく壁を蹴り上げ、反対側に飛び移り、三角飛びの要領で上昇していく。咄嗟に放たれたレーザーは、彼女の足跡を焦がすのみだった。
「話には聞いていましたが、これ程とは思いませんでした。身体能力も、往生際の悪さも」
「ごめんなさいね、往生際が悪くて。そうでもないと、リーダーとして示しがつかないもの」
そのまま少女の背後に飛び降りると、チハヤの身体は「少女」に目もくれず一気に駆け出した。
「待ちなさい」
「待てと言われておとなしく待つと思う?」
無慈悲にレーザー銃を構えながら、無表情の「少女」が後を追う。「少女」のレーザー銃は捕捉用の武器、殺傷能力は低いものの当たれば身体が麻痺してしばらくは動けなくなる。当たれば終わり、という点では凶器とさして変わりはない。
「キサラギチハヤ。貴方の行為はサイバー条例第三条への抵触、すなわちトーキョースプロールの平和を脅かす行為です。今投降すれば数年の禁固刑で済みますが、これ以上続けるようであれば終身刑、最悪貴方を危険因子として排除しなければならなくなります」
「少女」から吐き出される言葉は、そのあどけない姿にも、「彼女」たちの謳う「平和」にも「秩序」にも似つかわしくないものだった。レーザーは相変わらず地面を掠めるばかりだったが、チハヤの影の輪郭を捉えつつあった。
「あなたもトーキョースプロールの市民の一人です。私たちも物騒な解決は望んでいません。キサラギチハヤ、今すぐ投降してください」
「投降はしない。捕まえたいのなら捕まえてみなさい。その銃で、撃ってみなさい」
「そうですか、残念です」
後方を一瞥し、チハヤは思わず息を飲んだ。「少女」の表情は、まるで凍ったかのように固まっていた。「彼女」たちに本心など存在しない。今口にした「残念」の意味を理解してはいても、その価値を「少女」は理解していないのだろう。
奥歯を食いしばりながら、チハヤは鉛色の地面を蹴り上げ続ける。かたや最新技術の結集した合金と合成タンパク質の躯体、かたや身体能力が高いと言えども生身のタンパク質。その差は距離という形で徐々に顕在化していた。
潜り込むように、縫うように右へ左へと進路を変えるものの、「少女」がチハヤを見失うことは決してない。拡張電子端末を傍らに追う「少女」からすれば、周囲の道程もチハヤの思惑も何もかも筒抜けだった。さすがにこれまでか、チハヤが瞼を強く下ろした、その瞬間――
「こっちです」
引っ張られる感触を、チハヤは覚えた。右腕。決して強くはない。だが確かな感触だった。
力の方向に目をやると、そこにいたのは一人の少女だった。配管のただれた建物の陰から腕を伸ばし、チハヤの右腕を掴んでいる。短めの髪は透き通ったハーバリウムのように美しく、伸ばした手は今にも折れてしまいそうなほどに華奢。そして柔らかく強かな視線を、チハヤに鋭く突き付けていた。