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 はっきりと覚えてはいないが、いつの頃からか旧来のSF作品を読まなくなってしまった。興味がなくなったわけではないし、面白くなくなったとも思わない。かつての時代の思想を根底に置いている以上荒大部分が唐無稽なのは否めないものの、むしろ旧時代のものとは思えないくらい現代を正確に描写したような、未来からタイムリープして執筆したのではと錯覚するほどのものもあり、文化的財産としても未来の予測としても十分に価値のあるものだとは思っている。
 この科学が飽和した時代においても、創作物を通じて初めて科学というものを学ぶという子供は多い。幼い頃に小説の中で邂逅したアンドロイドに思いを馳せ、現実の彼らを目の当たりにして感動したという人も珍しくないはずだ。私もその内の一人で、その中でもおそらく極めて恵まれたほうだった。骨董品が趣味の父親の影響もあり、私が誕生した頃には既にデッドメディアと化していた文庫本が実家には大量にあった。その二割ほどがSF作品で、今私の手元に残っているものも、ほとんどが父の書斎から拝借してきたものだ。
 しかし、その中で最後に手をつけた日をはっきり思い出せるのはほんの一握りだ。茶色く古ぼけた文庫本のページをめくっても、あるいは端末の電子ブックアプリを起動しても、程なくして私の指は動きを止めてしまう。
 人間を模した自律機械を「アンドロイド」と初めて称したのは、一八〇〇年代後半の作品らしい。あいにく私はその作品を読んだことはないが、アンドロイドが登場するSF小説ならこの人生で何作も読んできた。逃げ出したアンドロイドが「狩り」の対象になる作品に、アンドロイドが人間社会に反旗を翻す作品、逆にアンドロイドが「愛」に目覚めそれを育む作品と、実に多くの作品が彼らの多様な姿を描いてきた。
 思い返すと、そんな彼らの姿に私は違和感を覚えるようになったのかもしれない。
 物語の中の彼らは、あくまで「人間と似て非なるもの、感情を持たない機械」の暗喩でしかなかった。技術的観点を根ざしているわけではなく、合理的で普遍的で無感情な存在、その象徴として彼らは描かれている。要は人間の対極の代表として彼らが選ばれたわけで、乱暴な言い方をすれば土人形でも動く死体でも成立するのだ。
 だが私が実際に出会ったアンドロイドは、必ずしもそうではなかった。SF作品の中で描かれたものと同じ姿をしていて、それらからずれた像を彼らは湛えていた。少なくとも、人間の対極に彼らは存在しなかったし、彼らの反対側にも私たちは存在しなかった。
 ――いや、おそらく私も最初からそう理解してはいなかった。おそらく私も昔は、それこそ「反機械化戦線」を立ち上げた当初には、私たちの対極に彼らの幻影を見据えていたはずだ。
 私がSF作品から離れ始めたのは、きっとその幻影を払拭した頃で、それは彼女たちとの出会いがきっかけだった。彼女たちの出会いが、私の視点も信条も何もかもを変えてしまったのだ。